昭和40年04月12日 夜の御理解
御理解第40節 「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は、楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」
重い物を負うたり担いでおるというわけではない。そうであれば苦しいのだけれども、そうでないから楽な、信心は楽じゃとこう。そこまで信心を楽にさせて頂けるところまでいかにゃいけん。だからこれは、私は、有難くさせて頂かなかればいけないと。有難くさせていただくという事が、楽なんです。しようと思ってさせて頂くって事には、やっぱり苦しさがその、伴います。
楽じゃということは有難くさせて頂く事だと思う。それは私、最近特に感じるのですけれども。朝の5時から7時までの奉仕は、こりゃまあもうそう頂きこんでおるのですから有難くできる。お昼頂いてから控えに下がっておりますと、私が2時から4時まで勤める事になっておりますから、あちらでうとうと眠りだしておりますと、しるしゅうなってくる。ですからしるしゅう。ここで座ったんではしるしい信心。
楽な信心じゃないということになる。それこそ寝た方が楽になということになってくる。そこで私は、最近1時間ばっかりあちらで、ご飯の後控えから必ずここに出る事にしておる。表のところに火鉢の所に。そして、いうならその2時の時間のじっと待機さしてもらう。それもこと神様の事でも思うてから待機さしてもらう。2時の時間が、待ち長いくらいにある。そして2時から4時までのその2時間の短さ短さ。
しるしい時にじっと1時間座っておっても楽な事じゃない。時計ばっかり眺めよごとある。楽にさして頂くのは、もうその時、2時間という時間があっという間である。お食事を頂いておる1時間の方が、長い。特別長いですね、ですから私は、それからちょっと努力をしなければいけないという事。お参りさして頂くと。ゆとりのあるお参りをさせて頂かなければいけない。
例えば私は、この信心は、その重いものを負うたり、かついだりしておるのでは、ないから楽じゃと仰る。その楽な信心というのはね、自分の気持ちのよい時だけ参ると。といった様な方にとってはこの教えは、間違いだと思う。参れるごたある時だけ参る、こういう訳です。それでは、しかし修行にならないでしょ。日々行のごと。日々行のごとという修行がです。有難とうなる。楽しうなる。
楽にならなければいけん。ここの所に私は、話を聞くばかりが能ではない、和賀心からも練り出せと仰る様なです。信心は、そういう意味じゃあ練りだしていかなければいけん。これは朝なんかでもそうである。さあ下りて来てご神前に出るじゃなくてから、たとえ5分でも10分でも一寸そこに気分を作らせてていただく、神様を思わせて頂くという時間があって、4時きっちりにご神前つかせて頂くと。
そこから始められる所にです。7時間の時間が、有難く奉仕ができる。水も茶も頂きませんからおなかがすいておるのにお食事を頂くとおなかがどんどん太うなる。眠気がついてくる。そこで例えば1時間なら1時間という間を新聞なら新聞を見せて頂いて、ああ眠気がついてきたと思ったら立ち上がってからここに出て来る様にしている。そすと2時の時間が「まぁだ先生、2時にならんの」と聞いてみたいごとある気がする。しかも2時から座った4時までの2時間という時間なんです。
もうとにかく短さ短さ。なんでも楽しい事をする時間は、非常に短い。自分の好きな事でもする時には、もう何時間たったかというごたある。しるしいのは、1時間でもじゅつない。30分間でもじゅつない。さあなんでもないのに例えば座っておらねばならん。待っておらねばならん、というのであったら。ね、例えば昼なら昼、家庭の中でも私の家内あたりが昼なら昼の御祈念に出てくることにしようか。
昼の御祈念に出てくると。自分が何か真剣になにか有難い時やら感じておる時やらお縋りさせてもらわん時には、ここで出てきて御祈念をする。ですから昼の時間に御祈念をさせて頂く。1時なら1時から御祈念させて頂くと。2時からなら2時から御祈念をさせて頂くとゆうなです。その前にあれもしもうとこ、これもしもうとこ、と言うてその心配りをさせて頂くという事。そういう工夫をさせて頂くという事がです。
御神前に座って有難いなあ。信心ちゃ有難いもんだなあっていうものを感じる。有難いなあと感じる御祈念は、本当に神様にそのまま通うておる心持ちがする。どうでもひとつ皆さんやはり工夫しなければいけません。これは、私の午後の奉仕のちょっとした工夫なんです。ね。楽にさせて頂く信心とは、そういう信心の事を教祖は、仰っておられるのじゃ、なかろうかとおもうですね。
それを楽。重い物を負うたり担いだりしておるのじゃないから確かにそうです。信心というのは。ですから楽じゃとこう仰る。なら楽な信心でよいというのでですたい、自分の都合のよか時だけ参る。自分の頼みのときだけに拝む。それは、楽かもしれんけど、それでは、一つも信心のいわば信心修行には、ならん。信心修行する事がです。自分の心がけひとつで楽しゅうなる、楽しゅうなるじゃない。有難うなる。しかも自分の好きな時の事をする時の事を思うてみれば良い様にです。
例えば2時間なら2時間の奉仕が、もう本当にもう2時間経ったのかという様にしてしまえる。どうでもひとつそういう工夫がなさらなきゃいけませんですねえ。こりゃまだまだ色々工夫があると思うです。御祈念をするにも工夫がいる。重いものを負ういるか担いでおれば苦しいが、そうではないから信心は楽じゃと、家業を勤め勤めするがよい。家業を勤め勤めするなかに、合間に御祈念が楽しい、お参りが楽しい、という様な信心になってくる時、信心が本当に成長というですかねえ。
信心が私はすすむとこう思う。ただ苦しい苦しいでした信心では、本当に身につかん。いつまでこげん参らにゃならんじゃろうかと。いうなら30分間御祈念をせんならんとでもいうたら、とにかく御神前に座って御祈念をさせて頂いておるという事がですねえ。繰り返し繰り返し御礼を申し上げる。お願いさせてもらいお詫びをさして頂き、その事が有り難うなってくる信心。その事が有り難うならなければ私は、楽な信心ということは、いえないと思うです。
おかげ頂きました。